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小綱町(しょうこちょう)の地名の由来 
金綱井
 (かなづない)壬申の乱に兵馬が集う 
古代から遣隋使や遣唐使が往来し、また中国や朝鮮からの外交使節が通った大和の国中(くんなか)を東西に走る幹線道の横大路(当時の国道第一号線※後述)と、南北に斜めに走る太子道(法隆寺と飛鳥宮を結ぶ聖徳太子も通ったと言われる道で飛鳥川沿いの道※後述)とが橿原市の中心部で交差するその一帯を小綱(しょうこ)と呼んできた。


『日本書紀』二十六の天武天皇元年条の
「金綱の井に屯
(いわ)みて散(あか)れる卒(いくさ)を招き聚(あつ)む」という、皇位継承紛争の壬申の乱(672年)に関する記録から出た地名のようで、金綱の井で離散した兵馬を集め大阪から来る近江軍と戦うために当麻方面に出陣した。

この「鉄の索で水を汲む」金綱(釣瓶が金属の索で作られている)の井戸が小綱付近にあったと言う。
その金綱(カナツナ)がコウツナ→コツナになり、さらに音読されてショウコ(小綱)となったと思われる。

金綱井は学術的には未だにどこにあったかは確定されていないが、金綱が転じてショウコ(小綱)の地名になっているし、壬申の乱の兵馬が榛原の墨坂から西進して桜井からはじまる横大路(当時幅員が30mもあったと言う説もある)を進みながら金綱井で兵馬を集めて大阪から来る近江軍と戦うために当麻方面に出陣したと考えると、現在の小綱町と内膳町との境の飛鳥川に懸かる「高橋」あたりにあり、横大路を西進して当麻方面に出陣したと考えるのが自然ではないだろうか。

金綱井が隣町の今井町にあったとの記述が沢山見受けられるが、今井町の「蘇武井」は太子道(=筋違道)にあり、聖徳太子が住まいの斑鳩宮から飛鳥小墾田宮(あすかおはりだのみや)に通われた途中で水を飲まれた井戸とか、愛馬の黒駒(黒い馬)に水を飲ませたとの井戸の伝説がある。(写真参照)。
地元には「蘇武井」が「金綱井」であったと言う伝承はないし、榛原の墨坂から幅員30mの横大路を西進して、大阪から来る近江軍と戦うために当麻方面に出陣する途中で小綱村で離散した兵を集めるのに南下してわざわざ今井村の「蘇武井」に寄り道をするのは大変不自然である。






その後横大路は平安時代に初瀬詣でが盛んになり、初瀬街道となり、江戸時代になると、伊勢詣が盛んとなり伊勢街道と呼ばれ、参詣人などの往来で今では想像できない賑わいぶりを見せたようだ。
 小綱町の遊郭
江戸時代横大路は伊勢街道の街道筋として多くの参詣者で賑わい,小綱町でも商業が盛んとなり、新屋敷と呼ばれた傾城(遊郭)もつくられた。
古代の「下ツ道」と「横大路」が交差する北八木村(現北八木町)に寛永年中(1629-1634)傾城(遊郭)があり、その傾城(遊郭)を営んでいた長左衛門と言う者が、その後北八木村の遊郭が中絶したので、北八木村に近い小綱村の新地を1反7畝開いて再興し、明暦元年(1655)の9月より家を建て始め、翌年1656年2月より「新屋敷」として営業を始めた、
茶店と4軒の揚屋があり大変賑わいを見せたものの、その後2回の火事に遭い、もう家を建てる余力も無く万治元年(1658)の春に店をたたんで大阪に退いた。
よって小綱町に傾城(遊郭)があったのは僅か2年間だけということになる。
 
 特産品(小綱いっかき)
又小綱では多くのかご細工職人が住みつき、高級竹ざる「小綱いっかき」を製造し行商で奈良県中に売りに出ていて「小綱いっかき」は高級ブランドとして人気があった。
いっかきは当時の農耕用具として必需品であった。
最近まで盛んに農閑期の副業として製造が行われていたが、昭和の終わり頃後継者が途絶えてかご細工職人がいなくなり途絶えた。
 
 
横大路 
横大路は、古代から難波津と飛鳥宮を結ぶ大道で、日本書紀の613(推古21)の条に「難波津より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記され設営された道で、日本最古の官道(国道第1号線)と呼ばれる。
道幅が30メートルぐらいあったとさるが諸説がある。
遣隋使や遣唐使が大陸(中国)に向かった道であり、その先はシルクロードに通じている。又中国や朝鮮半島の大陸文化をもたらして飛鳥文化を開花させた道でもあった。
飛鳥の都へ向かう外国の使者や、豪族たちも、この道を通ったと思われ、当時の重要な幹線道路であり時代を超えて重要な役割を担ってきた。
横大路はその後は、平安時代には初瀬詣や江戸時代には伊勢詣の交通の通路として、初瀬街道や伊勢街道と呼ばれ多くの人々が往来した


 
 横大路の幅員
横大路の幅員は、発掘調査事例から30m説、28m説、42.5m説と諸説があるが、幅員を良くとどめている場所として桜井市戒重の「構内」遺跡や、橿原市小綱町「畑ヶ田」(現小綱町内笹木内科医院南あたり)や橿原市八木町の奈良地方法務局あたりの発掘調査事例や橿原市山之坊町の「橿原山之坊郵政官舎」あたりの発掘調査事例から幅員が30m~40mあったと言われている。
橿原市八木町奈良地方法務局あたりの石板 


橿原山之坊郵政官舎あたりの銘板


小綱町の横大路南側水路跡 


 クリックすると拡大します。
遺構地図   
 
 横大路を通った人たち
 
西暦 王朝 主な出来事
600年 初の遣隋使が派遣される。しかし、派遣された人物は不明で、文帝との面会は叶わなかった。
607年 第二回遣隋使として、小野妹子が派遣され、日本と隋による国交が樹立。
608年 第三回遣隋使として小野妹子、高向玄理僧旻南淵請安ら8人、隋へ留学する。
614年 第四回遣隋使として犬上御田鋤が派遣される。しかし、618年に隋が滅んでしまい、これが最後の遣隋使となった。
630年 第一回遣唐使として、犬上御田鋤が派遣される。
653年 第二回遣唐使が派遣される。
654年 第三回遣唐使として、高向玄理が派遣される。
659年 第四回遣唐使が派遣される。
665年 第五回遣唐使が派遣される。
669年 第六回遣唐使が派遣される。
702年 第七回遣唐使として、粟田真人山上憶良が派遣される。
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平城京~平安京時代の遣唐使 
717年 第八回遣唐使として、阿倍仲麻呂吉備真備玄昉井真成が派遣される。
733年 第九回遣唐使が派遣される。
746年 第十回遣唐使、派遣中止。
752年 第十一回遣唐使として、藤原清河、吉備真備が派遣される。
759年 第十二回遣唐使が派遣される。
761年 第十三回遣唐使が派遣される。
762年 第十四回遣唐使が派遣される。
777年 第十五回遣唐使、派遣中止。
779年 第十六回遣唐使、派遣中止。
804年 第十七回遣唐使として、最澄空海、橘逸勢、霊仙が派遣される。
838年 第十八回遣唐使として、円仁が派遣される。
894年 第十九回遣唐使、菅原道真の建議により、派遣中止。
 
 遣隋使・遣唐使によって日本に持ち込まれたもの
仏典や注釈書などは重複するものはさけ、新しいものを探して持って帰ったとみられる。
中国原産ではなく、シルクロードから伝わったもの、すなわち、白菜、ピーマン、西の瓜と書くスイカなどを、長安で種を得て日本に持ち帰った。 




楽器のルーツも、たくさんもたらされた。
 ●横笛・宮中でも使われている笙(しょう)、正倉院にも ある五弦の琵琶
  写真は螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)
サイコロ、双六、囲碁、壺の形をした陶器に 投げる輪投げなども伝わった。
経典以外の書
●奈良時代には、古代中国の良い文を集めた「文選(もんぜき)」が読まれ、仏教文化が根付いた平安時代には、中国の仏教詩人である白楽天が愛好された。
それらも遣唐使が持ち帰った。
貨幣
野菜発酵(はっこう)技術〈蘇(そ)・味噌(みそ)・しょうゆ
スパイス・薬草(やくそう)〈胡椒(こしょう)・シナモンなど〉
占(うらな)い・天文学(てんもんがく)・暦法(れきほう)


  
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 太子道(筋違道)
小綱町内の飛鳥川堤防の道は、聖徳太子が通った道だった。
 太子道(筋違道・すじかいみち)
小綱町内を流れる飛鳥川河畔の堤防の道は、飛鳥時代聖徳太子が通われた太子道(筋違道)だった。
太子道は、推古天皇の13年(605年)聖徳太子が斑鳩宮に移り住まれ、それ以降飛鳥小墾田宮
(あすかおはりだのみや)に通われた道路だとされている。道は、飛鳥から斑鳩までを最短距離で結び、その直線の総距離は約23~4キロになる。明日香村・橿原市川西町・三宅町・田原本町と、奈良盆地を斜めに貫いていることから筋違道(すじかいみち) とも呼ばれている。太子のために推古天皇が造った近道との説もある。現在の太子道は、磯城郡川西町・三宅町・田原本町などに僅かにその痕跡を残すだけとなっている。
聖徳太子は愛馬黒駒に乗り、調子麿という馬丁を供にして毎日斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮に通ったとされている。
馬に乗り並足早足を繰り返して進めば、平均20km程度の速度は出せるから、2時間程度の所要時間で足りたとする説もある。
小綱町はこの太子道(筋違道)と横大路が交差する場所だった。

筋違道(すじかいみち)ルート図★

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 小綱町は環濠集落

環濠集落(かんごうしゅうらく)とは、周囲に濠をめぐらせた集落(ムラ)のことで、かって集落の周りに、濠を掘って、外部からの攻撃を防いだ。日本全国に、400あまりの環濠集落が見つかっている。近畿地方、とくに奈良盆地に多くみられ,幅4~5メートルの濠(ほり)を人為的に掘り巡らした集落である。城壁と外堀を巡らした一般の城砦(じょうさい)都市をさすのではない。その起源は明らかでないが、古代の豪族割拠の時代に村落民が自衛のためにを掘った名残(なごり)とされている。また、夏には降水量が少なく、水不足が生じやすかったので、灌漑(かんがい)水を蓄えて利用したことも、奈良盆地に環濠集落が残存した一因ともいえる
●小綱町の環濠
いつ頃造られたかは定かでないが、小綱町の西側にわずかに環濠集落の形跡である掘割の痕跡が認められる。
小綱町は環濠集落をなしていた。これは戦国乱世に際しては、自衛のためにも一層有利であった。しかし小綱町の環濠は、内垣内(現在の主に6組、7組あたり)を取り囲んでいるだけで、大日堂や入鹿神社のある堂垣内は環濠外となっている。従って小綱町は街道沿いの内垣内に集落が発達し、中世末にそこに環濠が設けられたものと考えられる。
環濠集落において社寺を濠外とした一例である。近世では環濠の自衛的意識は薄らいできたので、集落も環濠を超越して発達した。いまも一部に昔日の姿をとどめているに過ぎない。
写真は昭和中頃の小綱町の環濠写真である。


奈良県の主な環濠集落
・稗田環濠集落(大和郡山市)
・若槻環濠集落(大和郡山市)
・竹之内環濠集落(天理市)
・萱生環濠集落(天理市)
・南郷環濠集落(広陵町)
・古寺環濠(広陵町古寺)
・高安環濠集落(斑鳩町)
・長楽環濠(河合町)
・藤森環濠集落(大和高田市)
・有井環濠集落(大和高田市)
・池尻環濠集落(大和高田市)
・神楽環濠(大和高田市)
・松塚環濠(大和高田市)
・土庫環濠(大和高田市)
・味間環濠(田原本町)

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正蓮寺大日堂は明治期小学校だった 
明治5年8月「邑(村)に不学の戸なく家に不学の人」をなからしめるために「学制」が頒布された。四民平等の原則をもととして、国民全てが等しく学校教育を受け、文明開化の近代国家をになう一員となることを期待したものである。そこで義務教育制度もはじまっている。いままで、学問と言えば武士とか恵まれた一部の人のものとされ、一般の人々は、せいぜい寺小屋あたりで日用生活に必要な読み書きを習うに過ぎなかった。しかも寺小屋へ通うことが出来たのは、よほど条件に恵まれた人達であった。
今井町及び小綱では、学制頒布に応じて直ちに寺院等を校舎として教育が始められたが、小学校の整ったのは明治7年4月のことである。発足当時の状況を見ると,次のようである、
●今井小学文明舎 今井町「西光寺」 生徒数男71名、女49名 校長上田新一郎氏
●小綱小学信道館 小綱町「廃寺普賢寺大日堂」 生徒数男25名、女16名    校長上田新一郎氏兼務
学校名は正式には何番小学とつけられたものであるが、人々の親しみがわかないので、そのほかに町村名・地名をつけて呼んだり、館とか舎というような呼び名をつけることが許されていたのである。校舎は仮用のもので、主として寺院などが用いられた。義務教育とは言っても、いまだ強制とまではいっていないので、学齢児の半分位が通学した程度であるし、女子にはなお不就学のものが多かった。
明治9年には小綱舎は廃されたようであるし、四条・地黄・妙法寺の各村とともに今井の学区に入ったようである。
(「今井町史」より引用)
※ 廃寺普賢寺大日堂に小綱小学信道館が存続したのは明治7年4月から明治9年の2年間だけのようである。
★廃寺普賢寺大日堂はその後昭和18年に国の重要文化財に指定され、名称を正蓮寺大日堂と改められた。

橿原市立大成中学校
橿原市立大成中学校は小綱町地内にある。
そして昭和26年の大成中学校開校当時小綱町は奈良県高市郡今井町大字小綱として今井町に属していた。

昭和22年1月25日付,奈良県教育民生部長より「学制改革に伴う町村としての対策樹立と実施準備に努力されたい」との通達に接し、2月18日、今井町役場(現今井町「華甍」)において学制改革に関する協議会を開催、そこで8名の準備委員会を決定。3月18日第一回委員会を開き、議長に桑山音次郎氏を選び、小委員会を置くこと、応急準備金五万円の支出とその徴収になどにつき協議し、その後着々と開校の準備を進めた。かくて翌年昭和23年4月22日今井町立今井中学校を今井町立今井小学校に併置創設し、開校式を挙げた。
職員として校長溝辺文昭氏ほか8名が着任し、3学年5学級、ほか専攻科(女子)1学級6学級編成となり、生徒数306名、今井小学校南北両校舎をこれに充てた。
 しかるところ昭和25年3月に真菅村(現真菅町)と組合立中学校設置の議が成ったので、組合立大成中学校として小綱町77番地の2に新校舎建設の認可を受けた。なお校舎新築には至らず、今井小学校を仮用した。4月校長大場正男氏が着任し、昭和25年8月31日には組合立大成中学校と校名を変更した。
翌年昭和26年9月1日に新校舎(小綱町77番地の2)に移転した。ついで昭和26年10月16・17日の新校舎落成式典及び祝賀行事を挙行した。
校舎敷地は528坪、運動場3,236坪外4,917坪。
校長は大場正男氏が着任し、生徒数は1年生170名・2年生170名・3年生195名、合計536名であった。
(「今井町史」より引用)

新校舎建設にあたり多くの小綱町の土地所有者が用地提供した、
昭和26年当時の校舎は写真のごとく木造建築であった。その建築には囚人がこれにあたり飯場(建築工事事務所と作業員宿舎)が小綱町地内の飛鳥川河畔(現奈良県建築組合あたり)に建設され、朝夕囚人達が隊列を作って飯場と建設現場を行進したと古老は言う。 
 小綱町の歴史概略 
 
 小綱町の人口推移 
 

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