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 入鹿神社
全国で唯一、蘇我入鹿公をお祀りする神社
●首から上の病に霊験あらたかな神様
●学業成就の神様
祭神の蘇我入鹿公は、第3回遣隋使として小野妹子らとともに隋に留学した 南淵請安が飛鳥に開いた塾で、中臣鎌足を除いて蘇我入鹿公の右に出る者がいないと言われるほどの頭脳明晰であったので、入鹿神社は「学業成就」の神様として厚い信仰がある。又、乙巳の変(645年6月12日)で蘇我入鹿公が飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに首をはねられたので、入鹿神社は昔から「首の上の病に霊験あらたかな神」として信仰があり、全国からお詣りが絶えない。
 
入鹿神社は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。
祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)と蘇我入鹿大臣の両柱を合祀している。
素盞鳴命と蘇我入鹿の木造坐像を神体とし本殿に丈1尺の木造立像2体が安置されている。 
現在の橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地であり、小綱町の隣町には曽我町(蘇我)といった地名も残る。曽我町には、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖を祀っている。因みに入鹿神社の鳥居は蘇我氏の始祖地の曽我町(蘇我)に向かって西向きに建っている。
入鹿神社は祭神が素盞鳴尊のため、かっては印度舎衛国にあった祇園精舎の守護神の習合として牛頭天王社と称されたこともある。
入鹿神社の社名について明治時代に入鹿神社から約4kmの所に明治22年に橿原神宮が造営されるにあたりに、皇国史観に基づいて神武天皇を祀る橿原神宮の近くに、逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、地元住民はそれを拒んだという。
日本書紀に基づいた「蘇我氏逆臣説」が日本史に通説となっていた時代も含めて地元の人々から「蘇我入鹿
」とを付けて崇敬を集めている。 
 橿原市指定文化財
入鹿神社本殿
本殿は一間社春日造で、神舎は丸柱、柱上に三斗を組み、背面を除く頭貫桁間に中世風の面影を残す蟇股を置く。中央蛙股肘木の中に丹精に彩色された彫刻が施され、屋根は桧皮葺で、棟は箱棟に千木、かつお木を取り付けた江戸初期の頃の建物である。
全体として室町時代の風格を思わせる建造物として昭和55年3月17日橿原市の指定文化財として指定を受ける。
建立後大正2年6月に一部修理をされていたが、近年老朽化が進み、昭和61年度に解体修理が行われた。
入鹿神社の伝説 
神社の伝えによると、 乙巳の変(645年6月12日)で蘇我入鹿公が飛鳥板蓋宮で中大兄皇子や中臣鎌足らに倒された頃、小綱町は隣町の曽我町(蘇我氏の祖神を祀るとされる宗我坐宗我都比古神社がある)の領地だったので、蘇我入鹿公は入鹿神社あたりで幼少期を過ごした家があったとか、入鹿の母が身を寄せた家があったなどと伝わる蘇我氏とはゆかりの深い一帯だ。
地元には乙巳の変で蘇我入鹿が首をはねられて、入鹿神社に飛んできたと言う伝承は無い。
また、蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねられたので、昔は小綱では鶏を飼わなかったとか、小綱で生れたものは蘇我入鹿を暗殺した中臣鎌足を祀る多武峯へ参ると腹痛が起るとか、明日香村小原は中臣鎌足の母の出生地だということで小綱町と小原は縁組みしない等多くの伝説がある。
 子供相撲奉納
入鹿神社の祭典で神楽など奏すると当社の神がきらい必ず雨を降らせるとの言い伝えで、神賑行事として例祭(毎年10月第2土曜日宵宮)に拝殿で「子ども相撲」が奉納される。
 入鹿神社の板絵
拝殿正面の扉両脇には、随神像の代わりに、板戸に随神さんの絵が描かれている。
<制作年代不詳>
随身(ずいじん、ずいしん)とは、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことである。また、日本の神道において、神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は随神とも書かれる。門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)、矢大神・左大神とも言う。なお、神社の門のうち、門の左右に随身(随神)を安置した門のことを「随身門」と呼ぶことがある。
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 全国の蘇我入鹿の首伝説
 乙巳の変(645年6月12日)飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された時の権力者蘇我入鹿の首の様子は多武峰縁起絵巻に首が見事に切断されて宙に飛び上がっている姿が描かれている。
日本書紀には首を切断したとの記述はないが、各地に蘇我入鹿の首の伝承が残っている。

■蘇我入鹿の首はどこに飛んだのか?

蘇我入鹿公の首飛翔伝説
(1)明日香村「飛鳥寺」の入鹿の首塚
(2)明日香村細川谷の「茂古森(もうこのもり)」
(3)三重県松阪市飯高町舟戸の首塚
(4)橿原市曽我町の「オッタ屋」
(5)桜井市の「談山神社」・・
『多武峯縁起絵巻』がある

■蘇我入鹿の首伝承













蘇我入鹿の首は5ヶ所に飛んだ
チラシを入鹿神社拝殿前に置いています。
ご自由にお持ち帰り下さい。

NHK奈良 ならナビ「岡本教授の大和まだある記」
入鹿の首伝説
 













■令和元年8月20日放映  
 「前編」飛鳥寺の首塚・もうこの森の首伝説
■令和元年9月17日放映
「後編」小綱町の入鹿神社・曽我町の「オッタや」・三重県の首塚

橿原市曽我町の「オッタ屋」








中臣鎌足に討たれた蘇我入鹿の首は、現在の橿原市曽我町の東端「首落橋」の付近にある家のあたりに落ちた。それでその家を「オッタや」と地元では呼んでいる。かってはその家の横を小川が流れ、「首落ち橋」と呼ばれた橋があったという。
蘇我入鹿の首が落ちたから「オッタや」又は「「オッテ屋」「「おって家」「オット屋」とも言われている。
橿原市曽我町には、蘇我一族の居館があったと言われ、蘇我馬子が創建した
宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社が鎮座している。蘇我氏の始祖を祀る神社として有名な神社である。

■桜井市の「談山神社」









中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿討伐をたくらむ密談をしたという故事により、別名・談山(かたらいやま)と呼ばれる桜井市多武峰の談山神社。
蘇我入鹿の首が落ちた場所は談山神社の上手とされる。二人を恨む蘇我入鹿の執念の深さを表すように、首が落ちた夜は天地が大いに荒れたという。


■明日香村「飛鳥寺」の入鹿の首塚











やがて“飛んでいただけ”の入鹿の首は、鎌足に反撃を開始する。
乙巳の変(645年6月12日)に)飛鳥板蓋宮で切られた蘇我入鹿の首が飛鳥寺のあたりまで飛んで来たという伝説がある。飛んできた蘇我入鹿の首が執拗に中臣鎌足を追い回そうとするので、供養のために建てたという。そして中臣鎌足は多武峰まで逃げたと言う伝説もある。
この蘇我入鹿の首塚の付近は、飛鳥時代に「槻の木(つきのき=ケヤキの古名)の広場があったとされる場所で、中臣鎌足と中大兄皇子が蹴鞠の会で初めて出会った場所である。この二人によって仕組まれたクーデターによって蘇我入鹿が惨殺され、その首が飛鳥寺に飛んできたと言われている。
ちなみに飛鳥寺は蘇我馬子が建立した日本最古の寺院である。


明日香村細川谷の「茂古森(もうこの森)」










その後も蘇我入鹿の首は執拗に中臣鎌足を追い回し、石舞台古墳から冬野川に沿って東に向かう細川谷の奥に上(かむら)という集落があり、その地の「もうこの森」の気都和既(きわつき)神社付近まで中臣鎌足を追いかけ回したという伝承がある。この変わった地名は、乙巳の変(645年6月12日)で殺害した蘇我入鹿の首に追われて、中臣鎌足がここまで逃げ込み、「もう追ってこぬだろう」言ったことに由来すると言われている。
力尽きたか、ホッと胸をなで下ろしたのか、中臣鎌足が腰掛けたという石が境内の手水舎横に残されている。


三重県松阪市飯高町舟戸の首塚と能化庵 









蘇我入鹿の首が飛んだ場所は、奈良県内にとどまらない。三重県松阪市飯高町舟戸には、蘇我入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がある。
一説には、乙巳の変で首を跳ねられて蘇我入鹿の奥さんと娘がこの地に持ってきて祀ったのが、その五輪塔だという。
地元には面白い伝承が残っている。高見山に登るときには「中臣鎌足を思い出すから」と鎌を持って登ることは戒められており、もし戒めを破ぶって鎌を持っていくと必ずケガをするとか、又五輪塔に詣でると頭痛が治るとか言われている。
又、近くには蘇我入鹿亡き後、妻と娘が尼になって入鹿の首を祀るために住んでいたとも伝えられる「能化庵」という寺院跡が残っている 。
首塚があるのは三重県三重県松阪市舟戸だが、近くには草鹿野(そがの)と言う地名もあり、このあたりは当時何らか蘇我氏と関係のある地であったのかも知れない。


■橿原市小綱町の「入鹿神社」■











橿原市曽我町のすぐ隣の小綱町には、入鹿神社がある。
昔、このあたりは飛鳥時代蘇我一族の領地で、確たる証はないが蘇我入鹿公の母がこの地の出身で、蘇我入鹿公は幼少期ここで育てられたとも言われている。
全国で唯一蘇我入鹿公をお祀りする神社として全国からお詣りが絶えない。
地元は昔から蘇我入鹿びいきの土地柄で、昔は中臣鎌足を祀る談山神社にはお参りしなかった。
尚、入鹿神社に蘇我入鹿の首が飛んできたという史実は地元には無い。 
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 ご神体を見ることができるか?
入鹿神社本殿には木像の素戔嗚尊の立像と入鹿大臣の座像二体が御神体として奉安されている。
■御神体とは?
神社には「御神体(ごしんたい)」と云われる祭祀の対象・中心になる存在があります。
御神体はそれぞれの神社によってその形態が違い、鏡の場合もあれば、剣や玉や石・木など様々です。
御神体は、「御霊代(みたましろ)」とも呼ばれることでも象徴されるように、「御霊(神霊)の依代(よりしろ=宿る場所)」であり、それ故に、山自体や滝などが御神体という場合もあます。
古代の日本人の行った元来の神道では、しばしばその土地にある巨石や大きな樹木などを神の降臨する場所としてとらえていました。そして、祭りの日にあたる毎にそこへ祭場を設けていたものが、時代を経て常設の祭場としての神社が発生したと考えられるのです。そして御神体にしても、その神社におさまり、かつ、より洗練された依代としての性質を持つ必要があって誕生した物であろうと考えられます。
ここで強調したいのは、御神体とは「依代」としての性質の物であり、確かに神の宿る「聖なる存在」ではありますが、それ自体が神とイコールではないと云うことです。我々はその御神体という「神の宿る存在(物質としては媒介と言えるかもしれない存在)」を通しより大きな神を崇めているのです。
■御神体をみることは可能か?
「御神体はどのようなものか?」
時折、神社の御神体を見たいと請われる事がありますが、基本的に御神体をお見せする事はありません。
先に述べた様に御神体自体が神とイコールではないものの、「聖なる物」であることにかわりはなく、神社にとって大切であり掛け替えのない物でもあります。そして、日本においては、そのような存在の物を見ることをしません。それ故に、御神体は本殿の御扉の奥に蔵し、一般に見る事は出来ないのです。また、これは神社に限らず寺院でも伺えることであります。その寺院の仏像を軽々しく簡単に見られないと云うのは良くある事です。
また同様な事が御神体に限らず、その神社所蔵の聖なる物であったり大切であったりする物にも当てはまります。それらの物は、神社の建て替えに伴う遷座祭等で見れることはあるかもしれませんが、普通に見る事ができないと決まっているのです。

 蘇我入鹿公御神体のレプリカ
地元では、昭和61年度の解体修理完了時に地元氏子に蘇我入鹿公の御神体のレプリカを記念品として配布した。
レプリカは入鹿神社拝殿に陳列しています。

 入鹿神社境内手水鉢の「盃状穴(はいじょうけつ)」
 入鹿神社境内手水鉢はいつ頃制作されたかは確たる記録がないので不明だが、「盃状穴(はいじょうけつ)」が沢山掘られている。
「盃状穴(はいじょうけつ)」とは神社の灯篭や手水石等に彫られている「穴」で女性のシンボルをかたどったのではないかとされ、豊穣や安産、子宝を願うものだったと説明されているが諸説も沢山あり未解明な部分も多い。
現在でも病気の治癒や子宝に恵まれる事を願って信仰されている。
「盃状穴(はいじょうけつ)」は古代文明のエジプトやカンボジアのアンコールワット遺跡、チベット、ネパールフランスのモンシャンミッシェル、ギリシャの古代遺跡、メキシコのアステカ文明・マヤ文明の遺跡や中国、韓国、オーストラリア、トルコ等の古代遺跡等有史以前に遡り世界中にあるようで日本でも縄文時代頃から作られていて、鎌倉以降のものはお寺や神社の石に刻まれる例が多い。
入鹿神社境内手水鉢には8個の「盃状穴(はいじょうけつ)」確認出来る。
「穴」を掘った目的の研究は、日本では明治時代に坪井正五郎や鳥居龍蔵によって考古学的な研究が行われたが、その後の考古学者の興味を引く事はなく、あまり研究は行われてこなかったようである。最近では民俗学の一部の学者が研究している。
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 地蔵さん移転
  古の時代から小綱町は我が国最初の国道ともいえる横大路と太子道(筋違道)の交わる交通の要衝として、多くの人々の往来があり、それらの道は飛鳥の都へ向かう外国の使者や、豪族たちも通ったと思われます。
又、江戸時代には、伊勢参りが盛んとなり横大路は伊勢街道として栄え、街道沿いでは、食事や湯茶の接待などの「施行」を行ったとされています。
昔から街道筋には多くの地蔵さん等が祀られていました。
その後近代の道路整備等でそれらの地蔵さん等は移転を余儀なくされ他の場所で一箇所にまとめられていたのを
この度入鹿神社境内の弁天社の堀のほとりに移転しました。地蔵さん以外にも金比羅さん等も含めて十二体の神仏を私達はこれからも鄭重にお祀りします。


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〒634-*0811
奈良県橿原市小綱町335番地
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