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小綱町(しょうこちょう)の地名の由来 
古代から遣隋使や遣唐使が往来し、また中国や朝鮮からの外交使節が通った大和の国中(くんなか)を東西に走る幹線道の横大路と、南北に走る太子道(法隆寺と飛鳥宮を結ぶ聖徳太子も通ったと言われる道)とが橿原市の中心部で交差するその一帯を小綱(しょうこ)と呼んできた。
『日本書紀』の天武紀によると、かの壬申の乱(672年)に天皇の一軍が小綱町の飛鳥川河畔にあったと思われる「金綱井」で戦ったとき、高市郡の大領(郡長)市県主許梅(たけちのあがぬしこめ)が急に口がきけなくなったが、三日ののち神がかりして神のお告げを語りだしたとある
その金綱(カナツナ)」がコウツナ→コツナになり、さらに音読されて小綱(ショウコ)となったと思われる。
横大路はその後平安時代に初瀬詣でが盛んになり、初瀬街道となり、江戸時代になると、伊勢詣が盛んとなり横大路は伊勢街道と呼ばれ、参詣人などでにぎわい、小綱町も街道筋として新屋敷と呼ばれた傾城(遊郭)もつくられ、商業も盛んとなりなり、多くのかご細工職人が住みつき、高級竹ざる「小綱いっかき」の製造が最近まで盛んに行われていた。
■小綱町地名考
  
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横大路 
横大路は、古代から難波津と飛鳥宮を結ぶ大道で、日本書紀の613(推古21)の条に「難波津より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記され設営された道で、日本最古の官道(国道第1号線)と呼ばれる。
道幅が30メートルぐらいあったとさるが諸説がある。
遣隋使や遣唐使が大陸(中国)に向かった道であり、その先はシルクロードに通じている。又中国や朝鮮半島の大陸文化をもたらして飛鳥文化を開花させた道でもあった。
飛鳥の都へ向かう外国の使者や、豪族たちも、この道を通ったと思われ、当時の重要な幹線道路であり時代を超えて重要な役割を担ってきた。
横大路はその後は、平安時代には初瀬詣や江戸時代には伊勢詣の交通の通路として、初瀬街道や伊勢街道と呼ばれ多くの人々が往来した。
遣唐使の基礎知識 
 横大路と太子道
 
 横大路の幅員
横大路の幅員は、発掘調査例から30m説、28m説、42.5m説と諸説があるが、幅員を良くとどめている箇所として桜井市戒重「構内」の遺跡や、 橿原市小綱町「畑ヶ田」(現小綱町内「佐々木内科医院南あたり)や、橿原市八木町奈良地方法務局あたり,の発掘調査事例(植え込みの中に「藤原宮横大路南側側溝跡」の碑あり)、や橿原市山之坊町橿原山之坊郵政官舎」あたりの横大路北側側溝発掘調査の事例から横大路は幅員30〜40mあったという説もある 
     
橿原市八木町奈良地方法務局あたりの石板  橿原山之坊郵政官舎あたりの銘板
地図                    地図

小綱町の横大路南側水路跡
地図(佐々木内科医院南側)
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遺構地図
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 横大路を通った人たち
 
西暦 王朝 主な出来事
600年 初の遣隋使が派遣される。しかし、派遣された人物は不明で、文帝との面会は叶わなかった。
607年 第二回遣隋使として、小野妹子が派遣され、日本と隋による国交が樹立。
608年 第三回遣隋使として小野妹子、高向玄理僧旻南淵請安ら8人、隋へ留学する。
614年 第四回遣隋使として犬上御田鋤が派遣される。しかし、618年に隋が滅んでしまい、これが最後の遣隋使となった。
630年 第一回遣唐使として、犬上御田鋤が派遣される。
653年 第二回遣唐使が派遣される。
654年 第三回遣唐使として、高向玄理が派遣される。
659年 第四回遣唐使が派遣される。
665年 第五回遣唐使が派遣される。
669年 第六回遣唐使が派遣される。
702年 第七回遣唐使として、粟田真人山上憶良が派遣される。
<参考>遣隋使  遣唐使  遣新羅使
横大路は後世では松尾芭蕉や本居宣長も歩いた道。

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平城京〜平安京時代の遣唐使 
717年 第八回遣唐使として、阿倍仲麻呂吉備真備玄ム井真成が派遣される。
733年 第九回遣唐使が派遣される。
746年 第十回遣唐使、派遣中止。
752年 第十一回遣唐使として、藤原清河、吉備真備が派遣される。
759年 第十二回遣唐使が派遣される。
761年 第十三回遣唐使が派遣される。
762年 第十四回遣唐使が派遣される。
777年 第十五回遣唐使、派遣中止。
779年 第十六回遣唐使、派遣中止。
804年 第十七回遣唐使として、最澄空海橘逸勢霊仙が派遣される。
838年 第十八回遣唐使として、円仁が派遣される。
894年 第十九回遣唐使、菅原道真の建議により、派遣中止。
 
 遣隋使・遣唐使によって日本に持ち込まれたもの

仏典や注釈書などは重複するものはさけ、新しいものを探 して持って 帰ったとみられる。
中国原産ではなく、シルクロードから伝わったもの、
 すなわち、白菜、ピーマン、西の瓜と書くスイカなど
 を、長安で種を得て日本に持ち帰った。
 

楽器のルーツも、たくさんもたらされた。
 ●横笛・宮中でも使われている笙(しょう)、正倉院にも ある五弦の琵琶

  写真は螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)
サイコロ、双六、囲碁、壺の形をした陶器に 投げる輪投げなども伝わった。
経典以外の書
●奈良時代には、古代中国の良い文を集めた「文選(もんぜき)」が読まれ、仏教文化が根付いた平安時代には、中国の仏教詩人である白楽天が愛好された。
それらも遣唐使が持ち帰った。
貨幣
野菜発酵(はっこう)技術〈蘇(そ)・味噌(みそ)・しょうゆ
スパイス・薬草(やくそう)〈胡椒(こしょう)・シナモンな
ど〉
占(うらな)い・天文学(てんもんがく)・暦法(れきほう)

  
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 太子道(筋違道)
小綱町内の飛鳥川堤防の道は、聖徳太子が通った道
 太子道(筋違道・すじかいみち)
小綱町内を流れる飛鳥川河畔の堤防の道は、飛鳥時代聖徳太子が通われた太子道だった。
太子道は、推古天皇の13年(605年)聖徳太子が斑鳩宮に移り住まれ、それ以降飛鳥小墾田宮
(あすかおはりだのみや)に通われた道路だとされている。道は、飛鳥から斑鳩までを最短距離で結び、その直線の総距離は約23〜4キロになる。明日香村・橿原市川西町・三宅町・田原本町と、奈良盆地を斜めに貫いていることから筋違道(すじかいみち) とも呼ばれている。太子のために推古天皇が造った近道との説もある。現在の太子道は、磯城郡川西町・三宅町・田原本町などに僅かにその痕跡を残すだけとなっている。
聖徳太子は黒駒に乗り、調子丸という馬丁を供にして毎日斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮に通ったとされている。
馬に乗り並足早足を繰り返して進めば、平均20km程度の速度は出せるから、2時間程度の所要時間で足りたとする意見もある。<拡大>
直線道路が示す方位は、真北から西に約20度の傾斜を持っていることから筋違道(すじかいみち)と呼ばれた。

筋違道(すじかいみち)ルート図★
   
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 小綱町は環濠集落
環濠集落とは?

環濠集落(かんごうしゅうらく)とは、周囲に濠をめぐらせた集落(ムラ)のことで、かって集落の周りに、濠を掘って、外部からの攻撃を防いだ。日本全国に、400あまりの環濠集落が見つかっている。近畿地方、とくに奈良盆地に多くみられ,幅4〜5メートルの濠(ほり)を人為的に掘り巡らした集落である。城壁と外堀を巡らした一般の城砦(じょうさい)都市をさすのではない。その起源は明らかでないが、古代の豪族割拠の時代に村落民が自衛のためにを掘った名残(なごり)とされている。また、夏には降水量が少なく、水不足が生じやすかったので、灌漑(かんがい)水を蓄えて利用したことも、奈良盆地に環濠集落が残存した一因ともいえる。

●小綱町の環濠
いつ頃造られたかは定かでないが、小綱町の西側にわずかに環濠集落の形跡である掘割の痕跡が認められる。
小綱町は環濠集落をなしていた。これは戦国乱世に際しては、自衛のためにも一層有利であった。しかし小綱町の環濠は、内垣内(現在の主に6組、7組あたり)を取り囲んでいるだけで、大日堂や入鹿神社のある堂垣内は環濠外となっている。従って小綱町は街道沿いの内垣内に集落が発達し、中世末にそこに環濠が設けられたものと考えられる。
環濠集落において社寺を濠外とした一例である。近世では環濠の自衛的意識は薄らいできたので、集落も環濠を超越して発達した。いまも一部に昔日の姿をとどめているに過ぎない。
写真は昭和中頃の小綱町の環濠写真である。



●奈良県の主な環濠集落
稗田環濠集落(大和郡山市)
・若槻環濠集落(大和郡山市)
竹之内環濠集落(天理市)
・萱生環濠集落(天理市)
南郷環濠集落(広陵町)
・古寺環濠(広陵町古寺)
・高安環濠集落(斑鳩町)
・長楽環濠(河合町)
・藤森環濠集落(大和高田市)
・有井環濠集落(大和高田市)
・池尻環濠集落(大和高田市)
・神楽環濠(大和高田市)
・松塚環濠(大和高田市)
・土庫環濠(大和高田市)
・味間環濠(田原本町)

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 小綱町の歴史概略 
 
 小綱町の人口推移 
 
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