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小綱町(しょうこちょう)の地名の由来 
 古代から遣隋使や遣唐使が往来し、また中国や朝鮮からの外交使節が通った大和の国中(くんなか)を東西に走る幹線道の横大路と、南北に走る太子道(法隆寺と飛鳥宮を結ぶ聖徳太子も通ったと言われる道)とが橿原市の中心部で交差するその一帯を小綱(しょうこ)と呼んできた。これは『日本書紀』の天武紀壬申の乱の条に、「更に還りて金綱(かなつな)の井に屯(いわ)みて散(あか)れる兵卒を招き集める」とあるが、金綱の井の所在地は小綱町の飛鳥川河畔だったと思われる。
金綱の井は鉄索(てつさく)を引いて水をくむ井戸のことである。
その金綱(カナツナ)」がコウツナ→コツナになり、さらに音読されて小綱(ショウコ)となったと思われる。
横大路はその後平安時代に初瀬詣でが盛んになり、初瀬街道となり、江戸時代になると、伊勢詣が盛んとなり横大路は伊勢街道と呼ばれ、参詣人などでにぎわい、小綱町も街道筋として新屋敷と呼ばれた傾城(遊郭)もつくられ、商業も盛んとなりなり、多くのかご細工職人が住みつき、高級竹ざる「小綱いっかき」の製造が最近まで盛んに行われていた。
  
横大路 
横大路は、古代から難波津と飛鳥宮を結ぶ大道で、日本書紀の613(推古21)の条に「難波津より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記され設営された道で、日本最古の官道(国道第1号線)と呼ばれる。
道幅が30メートルぐらいあったとさるが諸説がある。
遣隋使や遣唐使が大陸(中国)に向かった道であり、その先はシルクロードに通じている。又中国や朝鮮半島の大陸文化をもたらして飛鳥文化を開花させた道でもあった。
飛鳥の都へ向かう外国の使者や、豪族たちも、この道を通ったと思われ、当時の重要な幹線道路であり時代を超えて重要な役割を担ってきた。
横大路はその後は、平安時代には初瀬詣や江戸時代には伊勢詣の交通の通路として、初瀬街道や伊勢街道と呼ばれ多くの人々が往来した。
 
 横大路と太子道
 
 横大路の幅員
横大路の幅員は、発掘調査例から30m説、28m説、42.5m説と諸説があるが、幅員を良くとどめている箇所として桜井市戒重「構内」の遺跡や、 橿原市小綱町「畑ヶ田」(現小綱町内「佐々木内科医院南あたり)や、橿原市八木町奈良地方法務局あたり,の発掘調査事例(植え込みの中に「藤原宮横大路南側側溝跡」の碑あり)、や橿原市山之坊町「橿原山之坊郵政官舎」あたり)の横大路北側側溝発掘調査の事例から横大路は幅員30〜40mあったという説もある。 
     
橿原市八木町奈良地方法務局あたりの石板  橿原山之坊郵政官舎あたりの銘板
地図                    地図

小綱町の横大路南側水路跡
地図(佐々木内科医院南側)
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遺構地図
 横大路を通った人たち
 ★横大路を通った人たち(613年〜710年)★
・630年・・遣唐使派遣 犬上御田鍬
・653年・・遣唐使派遣 吉士長丹
・654年・・遣唐使派遣 高向玄理
・659年・・坂合部石布
・623年〜695年まで新羅へ使者を派遣した回数 14回
      新羅使の来朝した回数 27回
・697年・・新羅使、来朝する。来た人 金粥徳 金任想
・699年・・多
(種子島)夜久(屋久島)、奄美(奄美大島
       度感
(トカラ列島)らの人が来朝
・700年・・新羅へ使者をはけん(佐伯麻呂ら)
・700年・・新羅使、来朝する。来た人 金所毛
・701年・・遣唐使派遣(粟田真人ら)
・703年・・新羅使来朝する。来た人 金福護 金孝元
・703年・・新羅へ使者をはけn 波多広足 額田人足
・704年・・粟田真人、唐から帰国 波多広足新羅から帰国
・705年・・新羅使、来朝する。金儒吉 金今古
・706年・・新羅へ使者を派遣 美努浄麻呂 対馬堅石
・709年・・新羅使、来朝する。金信福
 
<参考>外国派遣特使一覧  遣新羅使
横大路は後世では松尾芭蕉や本居宣長も歩いた道。
 太子道
 太子道(筋違道・すじかいみち)
小綱町内を流れる飛鳥川河畔の堤防の道は、飛鳥時代聖徳太子が通われた太子道だった。
太子道は、推古天皇の13年(605年)聖徳太子が斑鳩宮に移り住まれ、それ以降飛鳥小墾田宮
(あすかおはりだのみや)に通われた道路だとされている。道は、飛鳥から斑鳩までを最短距離で結び、その直線の総距離は約23〜4キロになる。明日香村・橿原市川西町・三宅町・田原本町と、奈良盆地を斜めに貫いていることから筋違道(すじかいみち) とも呼ばれている。太子のために推古天皇が造った近道との説もある。現在の太子道は、磯城郡川西町・三宅町・田原本町などに僅かにその痕跡を残すだけとなっている。
聖徳太子は黒駒に乗り、調子丸という馬丁を供にして毎日斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮に通ったとされている。
馬に乗り並足早足を繰り返して進めば、平均20km程度の速度は出せるから、2時間程度の所要時間で足りたとする意見もある。<拡大>

直線道路が示す方位は、真北から西に約20度の傾斜を持っていることから筋違道(すじかいみち)と呼ばれた。
筋違道(すじかいみち)ルート図★
   
 小綱町は環濠集落
環濠集落とは?

環濠集落(かんごうしゅうらく)とは、周囲に濠をめぐらせた集落(ムラ)のことで、かって集落の周りに、濠を掘って、外部からの攻撃を防いだ。日本全国に、400あまりの環濠集落が見つかっている。近畿地方、とくに奈良盆地に多くみられ,幅4〜5メートルの濠(ほり)を人為的に掘り巡らした集落である。城壁と外堀を巡らした一般の城砦(じょうさい)都市をさすのではない。その起源は明らかでないが、古代の豪族割拠の時代に村落民が自衛のためにを掘った名残(なごり)とされている。また、夏には降水量が少なく、水不足が生じやすかったので、灌漑(かんがい)水を蓄えて利用したことも、奈良盆地に環濠集落が残存した一因ともいえる。

昭和の初め頃の小綱町の環濠
いつ頃造られたかは定かでないが、小綱町の西側にわずかに環濠集落の形跡である掘割の痕跡が認められる。
古墳時代奈良盆地には多くの豪族が群雄割拠し覇権を競っていた。小綱町は大豪族蘇我氏の領地であり、村の回りにを造り外敵を防いだと考えられるが真意は明かでない。
同じような環濠は小綱町の近隣の地黄町・曽我町・五井町・豊田町・曲川町・膳夫町にも見られる。
小綱町の隣町、町並み保存で有名な橿原市今井町にも環濠があるが小綱町の環濠とは性格を異にするものと思われる。
今井町は16世紀前半から一向宗(浄土真宗)の寺内町として発展した町で浄土真宗本願寺派などの寺院の境内地に築かれた集落であり、寺院の四周にをめぐらせ、土居を築いて武装宗教都市的性格を持っているのが特徴であり、小綱町とはその成立の歴史に隔絶の差があり環濠の性格は違うものと思われる。
今井町では、2011年に信長に対抗する防御用と思われる堀が発掘された。

このような貴重な歴史遺産である小綱町の環濠は現在小綱町の西部に一部痕跡を留めるに過ぎない。昭和時代の経済発展に伴い、道路整備の為に埋め尽くされ、殆ど破壊されたことは嘆かわしい限りである。

●奈良県の主な環濠集落
稗田環濠集落(大和郡山市)
・若槻環濠集落(大和郡山市)
竹之内環濠集落(天理市)
・萱生環濠集落(天理市)
南郷環濠集落(広陵町)
・古寺環濠(広陵町古寺)
・高安環濠集落(斑鳩町)
・長楽環濠(河合町)
・藤森環濠集落(大和高田市)
・有井環濠集落(大和高田市)
・池尻環濠集落(大和高田市)
・神楽環濠(大和高田市)
・松塚環濠(大和高田市)
・土庫環濠(大和高田市)
・味間環濠(田原本町)

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 小綱町の歴史概略 
  
 小綱町の人口推移 
  

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