室町時代の小綱町からの贈り物


小綱町文化財保存会

〒634-0811奈良県橿原市小綱町

<公式ホームページ>
  I'm sorry. This homepage is a thing of Japanese indication. In this homepage,a link is free

 
全国で唯一、蘇我入鹿公を御神体とする神社 
祭神の蘇我入鹿公は、飛鳥に南淵請安が開いた塾で中臣鎌足を除いて蘇我入鹿公の右に出る者はいないと言われるほど頭脳明晰であったので入鹿神社は学業成就の神として有名である。
乙巳の変645年6月12日)で蘇我入鹿公が飛鳥板蓋宮で中大兄皇子や中臣鎌足らに倒された時、その首が小綱町に飛んできたので昔から首から上の病に霊験あらたかな神として信仰があり全国からお詣りが絶えません。

入鹿神社廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。
祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)と蘇我入鹿の両柱を合祀している。
素盞鳴命と蘇我入鹿の木造坐像を神体とする。
 素盞鳴尊・・木造立像、丈一尺 作者・年代不詳
 入鹿大臣・・木造座像、丈一尺 作者・年代不詳
現在の橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」といった地名も残る。小綱町の隣の曽我町には、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖を祀っている。
祭神が素盞鳴尊のため、かっては印度舎衛国にあった祇園精舎の守護神の習合として牛頭天王社とも称された。
当社の社名について明治時代に、皇国史観に基づいて逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、地元住民はそれを拒んだという。
明治二十六年十二月十日の氏子総代より奈良県知事宛願書によると、明治十二年の「神社明細帳」に入鹿神社と届け出ていた所、当社は往古より素戔鳴命を合祀していたのだから牛頭天王社を差おいて入鹿神社と唱えるのは不都合との係官よりのお達しに付、入鹿神社との届出を牛頭天王に改めたいとの願書が出されている。
「宗教法人法による届出書」では元の入鹿神社を社名に、二神合祀の神社と届出ている。
日本書紀に基づいた「蘇我氏逆臣説」が日本史に通説となっている今に至るまで、地元の人々から崇敬を集めている。
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狛犬
入鹿神社の板絵
拝殿正面の扉両脇には、随神像の代わりに、板戸に随神さんの絵が描かれている。<制作年代不詳>

随身(ずいじん、ずいしん)とは、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことである。また、日本の神道において、神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は随神とも書かれる。門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)、矢大神・左大神とも言う。なお、神社の門のうち、門の左右に随身(随神)を安置した門のことを「随身門」と呼ぶことがある。

 
板絵
 橿原市指定文化財 入鹿神社本殿 
本殿は一間社春日造で、神舎は丸柱、柱上に三斗を組み、背面を除く頭貫桁間に中世風の面影を残す蟇股を置く。中央蛙股肘木の中に丹精に彩色された彫刻が施され、屋根は桧皮葺で、棟は箱棟に千木、かつお木を取り付けた江戸初期の頃の建物である。全体として室町時代の風格を思わせる建造物として昭和55年3月17日橿原市の指定文化財として指定を受ける。
尚、近年老朽化が進み、昭和61年度に解体修理が行われた。

御神体は木像の素戔鳴命の立像と入鹿大臣の坐像二体が奉安されている。 
 
入鹿神社の伝説
神社の伝えによると、 乙巳の変(645年6月12日)で蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮で中大兄皇子や中臣鎌足らに倒された時、その首が小綱町に飛んできたのを祀ったと言われている。

また、蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねられたので、昔は小綱では鶏を飼わなかったとか、小綱で生れたものは蘇我入鹿を暗殺した中臣鎌足を祀る多武峯へ参ると腹痛が起るとか、明日香村小原は中臣鎌足の母の出生地だということで小綱町と小原は縁組みしない等多くの伝説がある。

神賑行事として例祭(毎年10月第2土曜日宵宮)に拝殿で「子ども相撲」が奉納されるが、神楽など奏すると当社の神がきらい必ず雨を降らせるとか。拝観申込

全国の蘇我入鹿の首伝承 蘇我入鹿の首は5ヶ所に飛んだ?
 
多武峰縁起絵巻
多武峰縁起絵巻には、蘇我入鹿の首が見事に切断されて宙に飛び上がっている姿が描かれている。日本書紀には首を切断したとの記述はないが、各地に蘇我入鹿の首の伝承が残っている。
■蘇我入鹿の首はどこに飛んだのか?
入鹿の首飛翔伝説

●明日香村「飛鳥寺」の入鹿の首塚
●明日香村細川谷の「茂古森(もうこのもり)」
●三重県松阪市飯高町舟戸の首塚
●橿原市曽我町の「オッタ屋」
●橿原市小綱町の「入鹿神社」
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飛鳥寺の首塚
■明日香村「飛鳥寺」の入鹿の首塚
飛鳥寺の西門を潜り、西に100Mばかり行くと一基の五輪塔が建っている。俗に入鹿の首塚と呼ばれている。
文化の改新のおり、切られた入鹿の首がここまで飛んで来たという伝説がある。そして切られた入鹿の首が鎌足を追いかけて来るので、その供養のために五輪塔が建てられたと言われている。そして鎌足は多武峰まで逃げたと言う伝説もある。
この入鹿の首塚の付近は、飛鳥時代に「槻の木(ケヤキ)の広場があったとされる場所で、中臣鎌足と中大兄皇子が蹴鞠の会で初めて出会った場所である。この二人によって仕組まれたクーデターによって蘇我入鹿が惨殺され、その首が飛鳥寺に飛んできたと言われている。
●参考「飛鳥寺
 
もうこのもり
■明日香村細川谷の「茂古森(もうこのもり)」
明日香村にはもう一カ所、入鹿の首が飛んで来たとの伝承が残る場所がある。
石舞台古墳から冬野川に沿って東に向かう細川谷の奥に上という集落があり、そこに「気都和既(きわつき)神社が鎮座している。
切断された入鹿の首は、鎌足を細川の上流にあたる明日香村上(かみ)の「もうこの森」(「気都和既(きわつき)神社付近)まで追いかけ回したという伝承がある。
この変わった地名は、乙巳の変で殺害した入鹿の首に追われて、中臣鎌足がここまで逃げ込み、「もう追ってこぬだろう」言ったことに由来すると言われている。
●参考もうこのもり
 
松阪市の五輪塔
■三重県松阪市飯高町舟戸の首塚 
蘇我入鹿の首が飛んだ場所は、奈良県内にとどまらない。三重県松阪市飯高町舟戸には、入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がある。
一説には、高見山まで飛んで来た入鹿の首が力尽きて落ちてきたのを祀ったのが、その五輪塔だという。
地元には面白い伝承が残っている。高見山に登るときには「鎌足を思い出すから」と鎌を持って登ることは戒められており、もし戒めを破ぶって鎌を持っていくと必ずケガをするとか、又五輪塔に詣でると頭痛が治るとか言われている。

●参考 松阪市飯高町舟戸の首塚
 
オッタ屋
■橿原市曽我町の「オッタ屋」
鎌足にうたれた入鹿の首は、現在の橿原市曽我町の東端「首落橋」の付近にある家のあたりに落ちた。それでその家を「オッタや」と地元では呼んでいる。かってはその家の横を小川が流れ、「首落ち橋」と呼ばれた橋があったという。
※入鹿の首が落ちたから「オッタや」又は「「オッテ屋」「「おって家」「オット屋」とも言われている。
橿原市曽我町には、蘇我一族の居館があったと言われ、蘇我馬子が創建した宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社が鎮座している。蘇我氏の始祖を祀る神社として有名な神社である。
●参考橿原市曽我町の「オッタや」
 
 
入鹿神社
■橿原市小綱町の「入鹿神社」
橿原市曽我町のすぐ隣の小綱町には、入鹿神社がある。
昔、このあたりは飛鳥時代蘇我一族の領地で、入鹿神社あたりに幼少時の入鹿の住まいがあったとか、入鹿の母が身を寄せた家があって、蘇我入鹿はそこで育てられたと言われている。
入鹿神社は全国で唯一蘇我入鹿を祭神とする神社である。
地元は昔から入鹿びいきの土地柄で、昔は鎌足を祀る談山神社にはお参りしなかった。
 
御神体を見ることは可能か?
入鹿神社本殿には木像の素戔嗚尊の立像と入鹿大臣の座像二体が御神体として奉安されている。
■御神体とは?
神社には「御神体(ごしんたい)」と云われる祭祀の対象・中心になる存在があります。
御神体はそれぞれの神社によってその形態が違い、鏡の場合もあれば、剣や玉や石・木など様々です。
御神体は、「御霊代(みたましろ)」とも呼ばれることでも象徴されるように、「御霊(神霊)の依代(よりしろ=宿る場所)」であり、それ故に、山自体や滝などが御神体という場合もあます。
古代の日本人の行った元来の神道では、しばしばその土地にある巨石や大きな樹木などを神の降臨する場所としてとらえていました。そして、祭りの日にあたる毎にそこへ祭場を設けていたものが、時代を経て常設の祭場としての神社が発生したと考えられるのです。そして御神体にしても、その神社におさまり、かつ、より洗練された依代としての性質を持つ必要があって誕生した物であろうと考えられます。
ここで強調したいのは、御神体とは「依代」としての性質の物であり、確かに神の宿る「聖なる存在」ではありますが、それ自体が神とイコールではないと云うことです。我々はその御神体という「神の宿る存在(物質としては媒介と言えるかもしれない存在)」を通しより大きな神を崇めているのです。
■御神体をみることは可能か?
「御神体はどのようなものか?」
時折、神社の御神体を見たいと請われる事がありますが、基本的に御神体をお見せする事はありません。
先に述べた様に御神体自体が神とイコールではないものの、「聖なる物」であることにかわりはなく、神社にとって大切であり掛け替えのない物でもあります。そして、日本においては、そのような存在の物を見ることをしません。それ故に、御神体は本殿の御扉の奥に蔵し、一般に見る事は出来ないのです。また、これは神社に限らず寺院でも伺えることであります。その寺院の仏像を軽々しく簡単に見られないと云うのは良くある事です。
また同様な事が御神体に限らず、その神社所蔵の聖なる物であったり大切であったりする物にも当てはまります。それらの物は、神社の建て替えに伴う遷座祭等で見れることはあるかもしれませんが、普通に見る事ができないと決まっているのです。
蘇我入鹿公御神体のレプリカ
地元では、昭和61年度の解体修理完了時に地元住民に蘇我入鹿公の御神体のレプリカを記念品として配布したことががあり、入鹿神社拝殿に陳列しています。
◆入鹿神社「例祭」
開催日    毎年10月第2土曜日(宵宮)・第2日曜日(本宮)
会場  奈良県橿原市小綱町「入鹿神社」境内 
だんじり  だんじりは毎年10月第2土日入鹿神社境内に飾り付けて陳列される。
普段は滅多に見られない小綱町の誇る文化財です。ご見学にお越し下さい。
だんじりの曳航については、小綱町文化財保存会の設立趣意である古事記にも地名が登場する古い歴史を有する小綱町の伝統文化を正しく後世に伝承せしめる事と交通事情等も鑑み平成24年より暫時研鑽期間を置くこととし
だんじりの曳航はしません。 
公共交通  近鉄「大和八木駅」南出口より徒歩10分 
自動車  駐車無し・会場への車両乗り入れ禁止 
連絡先  小綱町文化財保存会
アルバム  2011 秋祭り写真アルバム CLICK HERE
2012 秋祭り写真アルバム CLICK HERE 
2013.10.13 入鹿神社・正蓮寺大日堂整備完工記念落慶式典 CLICK HERE 
2014 秋祭り写真アルバム CLICK HERE 
2015 秋祭り写真アルバム CLICK HERE 
2016 秋祭り写真アルバム CLICK HERE 
2017 秋祭り写真アルバム CLICK HERE 

「御湯(みゆ)」湯立神事が復活しました。
  小綱町文化財保存会は古事記にも地名が登場する古い歴史を有する小綱町の伝統文化を正しく後世に伝承することを目的に活動しています。
この度平成24年10月13日・14日開催された入鹿神社例祭(秋祭り)において20数年途絶えていた「御湯(みゆ)湯立神事」を復活しました。
「御湯(みゆ)湯立神事」とは、神社の前で湯を炊いてその湯を参詣者に掛けて”無病息災”五穀豊穣”””家内安全”を祈願する神事です。
小綱町文化財保存会はこれからも伝統ある文化を復活出来るものは出来るだけ復活して正しく後世に伝承する事業を進めて参ります。
この「御湯(みゆ)湯立神事」は毎年10月第2土曜日午後5時に開催される入鹿神社の宵宮祭の前に開催されます。
ご見学にお越し下さい。

◆御湯(みゆ)
で表示方法を選択して下さい。 


入鹿神社境内の境内社と小祠

稲荷神社
祭神・・倉稲魂神
春日造向拝屋根板張銅板葺、桁行1尺、梁行1尺

稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。

日本にある稲荷神社は6万社を超えるとも言われており、屋敷神として企業のビルの屋上や工場の敷地内などに祀られているものまで入れると稲荷神を祀る社は数えきれないほどの数になる。江戸時代になると、江戸に多い物は火事と喧嘩に加えて「伊勢屋、稲荷に、犬のくそ」とまで言わるようになった。本来は穀物・農業の神だが、現在は産業全般の神として信仰されている。


八幡神社

祭神・・誉田別命
春日造向拝屋根板張銅板葺、桁行2尺、梁行2尺

八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬された。
誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。


秋葉神社
祭神・・秋葉大権現
春日造向拝屋根板張銅板葺、桁行1尺、梁行1尺

秋葉神社は火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)を祀っている。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多い。

弁天社

何故「弁天社」だけが入鹿神社境内の堀の中に祀られているのか?

「堀の中の弁天社」

「雨乞いの大松明」

 「境内の堀」

祭神・・弁財天
流造板張銅板葺、桁行1尺、梁行1尺


弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の1つ。

経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。弁天(べんてん)とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。
本来、仏教の尊格であるが、日本では神道の神とも見なされ「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある。また、元来インドの河神であることから、日本でも、水辺、などに深い関係のある場所に祀られることが多い。 そのため弁才天は、日本土着の水神や、記紀神話の代表的な海上神である市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった。弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となった。
大正12年の干ばつ時にこの社前で雨乞いをし、小麦藁3かかえの大松明を担って村内の畦道をまわったという。このように弁財天は水に関係の深い神様(仏様)なので、入鹿神社境内でも堀の中に祀られている。又入鹿神社の堀もその弁財天を祀るために掘ったものであり、昔の農耕社会における水の重要性が分かる貴重な文化遺産と言える。


入鹿神社境内のその他の石碑

康申さんと「お日待ち」



  お日待ち

小綱町でも昔「庚申講」という講があって「お日待ち」という行事を昭和の終わり頃まで連綿と続けられていた。
人々は、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って全員で飲食を共にした。
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことで、庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。小綱町の庚申塔は昔恐らく街道筋に置かれていたものを街道の拡張整備工事等で入鹿神社境内の堀の前に移転されたものと思われる。「現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申尊天」と書かれた石柱を全国で見ることができる。



明治天皇遙拝所碑 
皇居遙拝

入鹿神社境内の北に「明治天皇遙拝所」という碑が立っている。
この碑は昭和30年の正蓮寺大日堂の大修理前には大日堂の正面右に立っていたものだが、昭和の大修理時に現在の位置に移転された。
この碑の裏面には「東宮殿下御成婚記念」と記されているので、大正13年(1924)1月26日の 東宮殿下(昭和天皇)の御成婚を記念して地元住民が奉納したものと思われる。
この碑の建立は大正天皇の治世時になされているが、何故碑名が「明治天皇]となっているのかは確たる記録は無い。
遙拝所とは
天皇の住まいされる皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝)する場所で天皇に向かって遙拝することを皇居遥拝(こうきょようはい)とも言う。
遙拝とは、天皇への忠誠を誓わせる運動の一つであり、君が代の斉唱、日の丸の掲揚、御真影への敬礼と共に、宮城遥拝も盛んに行われた。特に太平洋戦争中には、天皇に忠誠を誓い、日本国民の戦意の高揚を図る目的で、宮城遥拝の動きは頂点に達した。
当時は方位盤を見て正確に皇居の方向をを遥拝したものだが、移転後の現在の入鹿神社の
「明治天皇遙拝所」は北東を向いており、正しく皇居に向かっていないのは移転した人たちが皇居遥拝の意味を理解していなかったと思われる。太平洋戦争後約10年経過した昭和30年時に、皇居の方位を意識しないで「明治天皇遙拝所」を移転したことは国民の平和感覚を推測されて面白い。

※ご注意

ある個人の旅日記ホームページで入鹿神社に「明治天皇もお見えになった様です」と間違って掲載されているため、この「明治天皇遙拝所」を明治天皇が拝礼された場所と間違われているケースがありますが、小綱町に明治天皇が行幸された事実はありません。


「蘇我入鹿公御舊跡」石碑

「御舊跡」で「御奮跡」ではありません。
クリックすると拡大します。
ではありません 




最近、「蘇我入鹿さんのお墓が入鹿神社境内にあると聞いたので来ました」という見学者がありました。
internetでこの石碑を書いてあるページを探すと、3つほどの旅行記の中に確かに「御奮跡」と記載されて、あたかも蘇我入鹿の「お墓」があるように思えるページもありました。これは見学者が間違った記載ですので公式に訂正します。
入鹿神社境内には蘇我入鹿公の墓はありません。

「舊」「奮」と間違われて旅行記に記載されています。
良く似通った字ですが意味は全く違います。
「御舊跡」は旧字体で現在では「御旧跡」と書き、
「舊」「旧」の旧字体です。
「旧跡」とは歴史上の事件や事物のあった場所を意味します。
どなたかが「古墳」の墳(ふん)を勝手に「奮(ふん)」と解釈されたと思われます。

この石碑は小綱町内に2ヶ所建っています。
元々は1つしか立っていなかったのですが、30年程前に自動車事故でこの石碑を壊された方が自己弁償されて新しくもう一つを造られ、事故で壊れたものも修復されたので小綱町地内に2ヶ所立っています
◆「蘇我入鹿公御舊跡」石碑の場所◆
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OP
正蓮寺大日堂

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